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「スナッカラの地蔵」を奉納した施主が
「正徳寺(聖徳寺)」にいた事が判明 |
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2008年11月13日(木)、「NPO法人 越谷市郷土研究会」会員として「第40回越谷市民文化祭」 |
の展示部門に出品する為に、「スナッカラの地蔵」を現地取材した際、越谷市内の石塔・石仏の悉皆調査を |
成し遂げられた加藤幸一先生の文献に記されていない銘文を、「スナッカラの地蔵」の「台石」の左側面に |
発見し、「武州」「東葛西」「上ノ割」「●徳寺」「施主」の文字をおぼろげながら確認した。 |
11月20日(木)、失礼ながら加藤幸一先生に「スナッカラの地蔵」の「台石」の左側面の銘文が悉皆調査 |
の文献に記されていない理由をメールでお尋ねすると、単なる見落としであるとの事。 |
11月22日(土)、加藤幸一先生は現地に赴かれ、「スナッカラの地蔵」の「台石」の左側面の銘文を完全 |
に読み取られて、その日の夜には私宛てにメールで報告された。 |
「スナッカラの地蔵」の「台石」の左側面に刻まれていたのは、以下の銘文である。 |
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武州葛西領 |
東葛西之庄 |
上ノ割下小合 |
村 |
正徳寺 |
施主敬白 |
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※ 引用文献 加藤幸一(2008) 「花田のスナッカラ地蔵」 |
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▲「スナッカラの地蔵」の「台石」の左側面の銘文 |
(南東より望む)(2008・11・13) |
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『新編武蔵風土記稿』巻之二十六 葛飾郡之七 に依れば、「聖徳寺 天台宗、墨田村木母寺門徒、金海 |
山正福院と號す、本尊聖徳太子、」との記述がある。「スナッカラの地蔵」の「台石」の左側面の銘文に |
みられる「正徳寺」は、この下小合村の「聖徳寺」であろう。 |
現在は、「しばられ地蔵」で有名な「業平山南蔵院」が、この「聖徳寺」の敷地に転じている。 |
『葛飾区寺院調査報告(下)』に依れば、「南蔵院」は昭和元年十二月に中之郷八軒町(墨田区吾妻橋三丁 |
目)より「聖徳寺」の境内である現在地に転じ、昭和四年に「聖徳寺」と合寺となったとある。つまり、 |
合寺となった昭和四年まで「聖徳寺」は存在していた事になる。 |
また、明治五〜八年調査の『東京府資料』にも「聖徳寺」の名が記載されている。 |
尚、『葛飾区寺院調査報告(下)』に依れば、「境内に聖徳寺の堂舎が残り、」「太子堂 間口三間、奥行 |
一間、屋根切妻造、桟瓦葺、旧聖徳寺本堂の一部で、目下、新築計画中。」との記述があるので、同書の |
書かれた1980年頃までは「聖徳太子堂」が残っていたと思われる。 |
※現在の「聖徳太子堂」は再建。 |
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▲「南蔵院・聖徳太子堂(再建)」 |
(南南西より望む)(2008・12・04) |
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再建された「南蔵院・聖徳太子堂」の向かって右には、「聖徳寺」「聖徳太子」「文政五壬午二月吉日」等の |
文字が確認出来る石碑が建っている。この碑文から文政五年(1822)には既に「聖徳寺」とも呼ばれていた |
ようだ。この事実は、文化七年(1810)起稿、文政十三年(1830)完成の『新編武蔵風土記稿』に「聖徳 |
寺」と記載されている事実と併せて貴重な資料である。 |
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▲(右側面) |
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▲(右側面) |
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▲(正面) |
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▲(左側面) |
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▲(左側面) |
(西北西より望む) |
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(西北西より望む) |
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(南南西より望む) |
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(東南東より望む) |
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(東南東より望む) |
「南蔵院・聖徳太子堂(再建)」前の石碑 |
(2008・12・04) |
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「南蔵院・本堂」の向かって右には、樹齢三百五十年といわれる「聖徳の松」が存在する。今から350年前と |
いえば偶然にも、「スナッカラの地蔵」の奉納された承応四年(1655)頃の事である。 |
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▲「南蔵院・本堂」及び「聖徳の松(樹齢三百五十年)」 |
(東より望む)(2008・12・04) |
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『葛飾区石仏調査報告』に依れば、「承応三暦 |
甲 |
八月吉日」の銘文のある総高131cm、像高82cm |
午 |
の「地蔵菩薩像」が一基存在するとある。承応三年(1654)八月といえば、「スナッカラの地蔵」が奉納さ |
れた承応四年(1655)正月廿六日の約5ヶ月前である。今回の2008年11月27日、12月4日の二回 |
に渉る現地調査では発見出来なかったが、是非この承応三年の地蔵菩薩像を確認し、「スナッカラの地蔵」と |
の類似点などを調査したい。 |
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入本英太郎・橋本直子(1993) 『葛飾区史跡散歩[新版]』 東京学生社 に依れば、元禄八年(1695) |
の検地の後に「東葛西領」を「上之割」と「下之割」に分割したと読める為、承応四年(1655)に奉納され |
た「スナッカラの地蔵」の「台石」に「上ノ割」の文字があるのは不自然に思えたが、承応四年(1655)に |
は既に、「東葛西領」を「上之割」と「下之割」に分割していた証拠であると、加藤幸一先生よりご教示頂い |
た。この分割時期に関しては調査中。 |
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※ 参考文献 |
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NPO法人 越谷市郷土研究会 加藤 幸一(2000) |
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「平成11・12年度調査 増林地区 増林村・増森村・中島村・花田村・小林村」 |
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P.98−100 |
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加藤幸一(2008) 「花田のスナッカラ地蔵」 |
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『新編武蔵風土記稿』巻之二十六 葛飾郡之七 |
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東京都葛飾区教育委員会社会教育課/編(1980) 『葛飾区寺院調査報告(下)』 |
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P.55・56・68・69 東京都葛飾区教育委員会 |
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葛飾区教育委員会/編(1988) 『葛飾区石仏調査報告』 |
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P.60・61 東京都葛飾区教育委員会 |
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入本英太郎・橋本直子(1993) 『葛飾区史跡散歩[新版]』 東京学生社 |
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※ 参考サイト |
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「天台宗東京教区公式サイト」 サイト内 「業平山南蔵院」 |
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